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HSP

HSP欠陥有り男性の説明書

はじめましてHSP フリーター 独身男のhamuと申します

 僕は 愛知県で三人兄姉の末っ子として誕生しました。
兄姉の中で一番自由に育てられ自由に生きすぎた結果今みたいな職業になってしまいました。
母親と父親は僕が幼稚園の時に離婚し
母 兄 姉 僕 祖母の5人で市営住宅で暮らしていました。

小学校に入学すると多人数との【人間関係】に疲れてしまい学校を遅刻したり月曜日だけ欠席をして家で頭と体を休めていました。高学年に上がるに連れて人間関係の悪化、勉強の遅れ等の理由 遅刻や欠席が増え小学6年生の時には学校の行事だけ参加する為に学校へ行っていました。

小学校を卒業すると「ここのままではいけない 変わらなければ」と思い、中学生の時は自分の殻を破ろうとしました。
僕には小学校からの友達 いや 大親友がいます。彼は学校でいつも面白いことをやって場を和ませていました。実は僕も昔から家族の前でくだらないこと言って笑ってもらうことが大好きだったこともあって彼には強い憧れがありました。
中学生では今までの内気のキャラクターを辞め、趣味のゲーム、カードゲームをやってる変なことを言うオタクになりました。中学2年生までは楽しく過ごせたのですが3年生のクラス替えで不良と優等生とスポーツ系の3グループに特化したクラスになり1年2年の仲が良かった友達全員と離ればなれになってしましました。自業自得の話ですが勉強を避けて趣味ばっかりやってきた自分の居場所はそこにはありませんでした。
【環境の変化】でついていけずに、
みんなが下校した後の中学校で担任の先生と話をするのが僕の中学3年生活でした。
ある日、進路の話になり担任の先生から夜間の高校かパソコンの専門学校の二択になりました。「高校」という言葉に憧れが夜間を選べぼうとした時、担任が「そういえばhamuくんの親友はパソコンの専門学校を受けるらしいけどhamuくんはどう?」言い僕の答えはすぐに出ました。無事に合格、中学を卒業し、僕はパソコン専門学生になりました。

この学校は20人くらいの1つのクラスしかありません。環境の変化が嫌いな僕にはとても自分に合った学校でした。
趣味のカードゲームもよく通っていたお店の店長からアルバイトの誘いを受けて
学校 プライベート 仕事 全て充実した学生生活を送りました。このままだったら全て上手くいくと思ってた2年生の後半、学校の勉強も本格的に受験のための資格勉強をしてた時、頭の中に【将来】という言葉が浮かび次第にそれは頭の中に常にある状態が続きました。夜になるとその不安を紛らわすために眠くなるため夜更かしをすることになりました。次第にその時間が増え3年生の頃には【不眠症】になってしまいました。授業の単位が取れなくなってしまい3年生のはじめの修学旅行を最後に僕は単位制の学校へ編入することになりました。

僕は起床後、中学3年生の時ようにみんなが下校後、学校へ行き単位取得をしてました。
担任の先生から「hamuは卒業後はどうする?」と聞かれまだ決まってないと話すと「ここの大学なら推薦できるぞ」と言われ僕はまた「大学」という言葉に憧れて受験することになりました。

無事に合格することができましたが僕の不眠症の治る気配はありませんでした。
電車で学校行くのに1時間かかるところだったので普通の学生のように朝起きて学校行くことが困難だった僕はゼミの担任の教授から「1限の単位が取れてないけどどうした?」と言われ事情を説明をしたら「休学できるけどどうする?」と言われ僕はその言葉に甘えてしまい休学することにしました。休学期間中に不眠症を克服することができなかった僕は大学生を退学することになりました。

学生の時のように短い時間でアルバイトをして実家生活をしてた僕に対して周りの友達から「もっと働け」「働くニートだね」「いつ正規雇用で働くの?」などの数々な正論を言われ続ける日々が続き、しまいには中学の同級生から「今仕事してないんだよね?hamuに会わせたい人がいる」と言われて会いに行ったらマルチ商法の勧誘でした。
このようなぼんやりと生きてきた僕に1度目の人生の転機が訪れました。
母親が遠距離の方と再婚を前提に交際することになり家族で引っ越すことになりました。24年間居た土地を離れ新しい土地で家族4人と相手の方とその母親の新しい家族2人で人生リスタートするため僕達は長野県へやってきました。

初めの数ヶ月は家族みんなで仲良くやって来たのですが僕達が来たことにより経済状況が悪化、相手の方とその母親が僕や僕の家族に怒鳴るようになりました。
家族の悪口を聞いたり怒鳴られた時はまるで自分が言われたかのように心に刺さりました。
そんな生活を繰り返している間に僕の兄は鬱病になってしまいました。
このままではいけないと思った母は別れ話を提案 相手の方は僕達家族が来て損失した30万円を分割で請求し、僕の母は借用書にサインして僕達は近くのアパートに家を借りて引っ越ししました。
人間関係のストレスが減って良かったのですが問題が山積みです借用書のお金、 相手の方のすすめで携帯会社変更で発生した違約金、引っ越し費用で借りたリボ払いの返済、等
兄は鬱病 姉は20代の頃に発覚した脳脊髄液減少症の治療中なので主な働き手は僕と母でした。
無我夢中に働いてなんとか全て返済し安心した時に兄に1つの電話がかかってきました。それは警察からの電話でした。
電話の内容は離婚した父親の【死】の知らせでした。死因は孤独死です。
僕の祖母は80歳以上生きたのできっと母親も父親も同じくらい長生きしてくれると思ってました。
後ろを振り返らずに兄と姉の病気の完治を願って前へ進んでいたらさらに、悪いことが続きました。
母がくも膜下出血で病院へ搬送されました。
この電話をバイト後兄から聞きいて、僕は母親の死で頭がいっぱいでした。
医師から手術の話があったのですが働き手が1人失いそれでも兄姉と一緒に家を回していかないといけないので僕は無我夢中で働き母親のことは兄と姉に任せました。
兄姉に母親の状態を聞くと
※以下引用

発症後1ヶ月以内に死亡される方は30%、元気に退院される方は60%で、残りの10%前後の方は高度な障害を後遺され、元の仕事に復帰される方は40%以下

と医師から言われました。
僕達家族にできることは とにかく
祈り とにかくこの困難を乗り越えることでした。
手術の日 僕はその日もバイトに出勤しました。
祖母が亡くなる一週間前 僕は「今度休みを貰ってお見舞い行く」と言い出勤
父親の時も「いつかお金を貯めて愛知に戻った時食事に行く」と電話で言い出勤
僕は不安でしょうがなく出勤中も職場の着信音、事務所の扉が開く音に怯えながら出勤しました。
その日の仕事が終わり事務所で兄姉に連絡すると手術は無事成功 一安心しその日は良く眠れたのを今でも鮮明に覚えなています。
手術後母は集中治療室で数週間入院していて兄姉をほぼ毎日母親に面会に行きました。
僕はも祖母と父のような【後悔】をしたくないと思ってバイトの休憩中や休日行ける時間に母の面会へ行きました。
ベッドの上には窶れた母が居ました。
母が起きるまで家族で座ってしばらく待っていると目を覚ましました。
初め母と会話した時短期の記憶を思い出すのがとても困難でした。毎回同じ話を二度と話したりし、以前の母はそこには居ませんでした。
僕は心の中のなにかが溢れそうになり大粒の涙を流し病院を後にしました。
それでも生きていたことに感謝していた僕達家族は翌日も面会に行き僕がバイトで行けない日も兄姉が面会に行き続けました。
驚くことに面会に行く度母日に日に元気になり昔の母に戻って行きました。
医師からも「1番良い回復の仕方」と言われ母は無事退院しました。
退院後とある日僕はYouTubeで【HSP】の動画を観ました。
兄から「そう言えばhamuはメンタルクリニックでそう診断されたね」と言われ
僕の人生2度目の転機が訪れました。
僕は昔、神経質な自分を何かの発達障害ではないかと思いメンタルクリニック診断して貰いました。HSPと医師に診断された当日はHSPの性質を自分で調べることは全くしていませんでした。
僕はYouTubeTwitter、ブログ等無料で観れるものを沢山観ました。
調べるうちに僕の中の頭の中にある将来の不安が無くなっていきました。
母親が生きていてくれたことが【感謝】
その感謝の気持ちを【今】返そう
そんなことをしてくうちに【過去】の後悔をする時間が減っていきました。
ここまで元気になれた僕も困った人を救いたいと思い義務教育をまともに受けていなくて文章をろくに書いたことがありませんがブログを書くことにしました。
長々と書いてしまいましたが最後まで呼んで頂き本当にありがとうございます
この記事を読んで何か思ったことがあれば気軽にコメントして貰えば幸いです
次のモチベーションに繋がるので是非お願いします
(よく考えてから返信するので遅いですが)

 


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#HSP #不眠症